三好達治随筆集/中野孝次編

ああ、いいなぁ、という感じ。穏やかで、柔らかくて、温かい。非常に贅沢。以下、強く印象に残ったところを引用。

 私にはいつも、自然は強大なあるいは繊細なあらゆる美の手段をつくして、沈滞する人の心をつねに眼ざめしめようと、人々の心に向かって不断に好機を捉えようとして待ちかまえているもののようにさえも思われる。私の心がたまたまそういう機縁にふれて、何かしら直截な生命感とでもいっていいような、そのまますぐと納得のゆくある感じでもって眼のさめるように覚える時、私はまたいつも、自然の方の側に不断にその用意の整っていたのがほのかに推し測られるようにさえも思われるのである。(『柘榴の花』p.144,145)

どんなに寂寥になれて孤独を愛する人でも、人間はみな、大なり小なり他人の生活によって自分の心を支えているものである。私はまたそんなことを考えた。暗い夜道を歩いていて、遠くに見えるあの灯火、何処の誰のものとも知れぬその窓の、あのほのかな黄色い火影のなつかしさ。あそこにもまた人間の団欒があり、夕餉の食卓があり、炉火があり、賑やかな家族の雑談に時が移ってゆく……そういう遠景を想像するのは、恐らく人は一瞬のうちに、またほとんど無意識のうちにそれを想像するのだが、それは路ゆく人の心を温かく支える。(『秋の日の情感』p.276,277)

 芸術は神さまの側からの寛容と、人間の側からの悲哀とで、成立っているもののように私には考えられます。神さまの側からは、むろん空想、後者は現実。(『魂の遍歴』p.299)

 私の性分は、一辺倒に感傷的なように自覚します。年来、時に随って書き散らした詩歌の類は、ことごとく胸裡の哀傷を吐露することに終始しました。評者に思想性の欠如を指摘されることがしばしばであります。その通りでありましょう。拝承はしながらも、しかしながら私には、自らを改訂のしようがありません。センチメンタリズムを外にして、詩なんぞあるものかい、と往年のダダイスト辻潤さんはいわれました。辻さんのように闊達に、上機嫌にそういい放つことを私はなおいささか憚りますが、詩歌における思想性は、大雅の絵画における空想、あの創造力の発揮のようなふうにでなければ、もともと意味ないことと信じます。むつかしいことをたやすげに注文するのが、批評家の特権のようであります。思想という名の職業を、操作しながらであります。
 芸術における思想性、有用性を、とり急いで着用したくはありません。(『魂の遍歴』p.299,300)