もう4月

だというのに、まったく相変わらずな生活。

今日も一日部屋にいて、昨日ブレッソン展で買った図録を眺めたり、本を読んだり(『『資本論』も読む』、3分の2ほど)、オザケンを聴いたり(『いちょう並木のセレナーデ』ばかり聴いて感傷に浸った)、消費期限が今日までの牛乳を使い切るために大量のホットケーキを焼いたりして、のろのろ過ごした。ほんとうにのろのろだ。


以下、長くなるけれど、ブレッソンの図録から引用。

わたしにとってカメラはスケッチブックであり、直観と内発的な心の動きにしたがう道具、すなわち視覚的な言語による問いかけと決定とを同時におこなう、瞬間の支配者なのだ。世界に「意味をあたえる」ためには、われわれはファインダーによって切り取るものと一体にならなくてはならない。そのためには、集中力、精神の規律、感受性、造形感覚が要求される。簡素な表現に到達するためには、手段を思い切って簡素にしなければならない。

写真をとることは、一瞬のうちに消えて行く現実の表面にありとあらゆる可能性が凝集した瞬間に息をとめるということである。イメージの征服が肉体的かつ知的歓喜へと転化するのはその瞬間である。

撮影とは認識である−事実自体と、その事実に意味をあたえる、視覚的にとらえた形態の厳密な構造とを、同時に一瞬のうちに認識することにほかならない。それは自己の知性と目と心情とを同一軸上に置くことである。
写真をとるにさいしては、つねに対象と自己にたいして最大の尊敬をはらわなければならない。それは生き方そのものなのである。