ヒトラー〜最後の12日間〜@MOVIX京都

追い詰められた個々の人間達の物語として見ることも、ナチスという1つの組織が崩壊していく過程の物語として見ることも、哀しい家族達の物語として見ることも出来る。

だけど、どのように見たとしても、アドルフ・ヒトラーという人が、徹底して、非常に『人間臭く』描かれているという所に、結局は戻って来てしまう。

『戦時に「市民」などいない』と平然と言い放ち、一刻も早くベルリン市民を避難させる手筈を、という部下の度重なる進言を撥ね付ける、冷酷無比の独裁者としてのヒトラー、思い通りにならない戦局や部下の態度に激昂して怒鳴り散らす、「総統」としてのヒトラー、秘書、料理人、更には愛人といった女性達や愛犬に接する時の、極めて優しい穏やかなヒトラー。そのどれもが、アドルフ・ヒトラーという1人の人格の中に、矛盾無く納まっている。この映画では直接描かれないが、その人格にはさらに、600万のユダヤ人を殺した「史上最悪の虐殺者」という側面も、やはり含まれている。

その事は、忘れてはいけないと思った。

同じことが、ゲッベルスにも言える。6人の子供たちを夫人が手に掛けようとする時、子供たちの居室のドアの外に立っている彼は、宣伝相としてプロパガンダの先頭に立っていたとは思えないような、不安で悲しげな父親の顔だった。


映画が進行している時点では、ヒトラーユダヤ人政策の全貌を知らなかった秘書・ユンゲが、映画の終わりに「ニュルンベルグ裁判で恐ろしい話*1を聞きはしたが、自分と結び付けて考えはしなかった。私は何も知らなかったのだ、と。だが、ある日犠牲者の名を刻んだ銘板で、自分と同じ年に生まれて、自分が秘書に採用された年に殺されたある女性の名前を見て、若さは無知であったことの言い訳にはならないと気付いた。目を見開いていれば、気付けたはずなのに。」というような事を言っていて、それがとても心に残った。

それから、最後に主な登場人物のその後と没年が出て来たのだが、ほんの最近まで生きていた方が沢山いた。物語の中心となっている元秘書のユンゲも、亡くなったのは2002年であるし、更には官庁の地下の要塞で通信兵をしていた方は今も存命中であるという。それを見て、ナチスヒトラーがあった時代は、決して今と隔絶しているわけではないのだということを思った。


繰り返しになるけれど、ヒトラーナチスがしたことが、同じ「人間」の仕業であるというのを、意識しなくてはいけないとは思う。

でも、その事実をどう受け止めて考えれば良いのか、私にはまだわからない。

堂々巡りになってしまう。

*1:ユダヤ人や他民族の大量虐殺