映画日本国憲法@京都シネマ

珍しく早起きが出来たので、この期を逃すまいと。

うまく言葉にすることが出来ないが、見てよかった。

シリアだったかレバノンだったかの市民の方が、「日本は戦争で一番苦しんだ国のはずでしょう。なぜ今戦争を繰り返そうとするのです。」という趣旨のことを仰っていて、この人は大変好意的に日本を見てくれているのだなぁと感じた。

奇しくも今日は「日本を苦しめた」2発のうちの1発が長崎に落とされた日であるが、日本は「世界で唯一原子爆弾を落とされた国」という「被害者」の側面と「アジアに対する侵略戦争を起こした国」という「加害者」の側面と両方を持っていて、そのことをしっかりと考えなくてはいけないとは思うが、それは大変難しいことであるとも思う。自分が被害者であるという意識を強烈に持つ者にとっては、加害者としての側面を真正面から受け入れることは難しいだろうし、その逆もあるだろう。そして、私のように戦後40年も経つ頃に生まれて、その痕跡さえほとんど目にせずに育った人間は、どっちつかずで、その時々によって両方の立場を意識して衝撃を受け、そして案外とすぐにその衝撃は薄れてしまう。


しかし、日本「だけ」が平和憲法を持つことが「できて」いるという事実には確かに後ろめたさを感じることもある。少し前に在日の傷痍軍人の方が保障を求めた訴状を目にしたのだが、その中にあった「(韓国が軍備の拡張に呻吟し、韓国の青年が兵役に苦しむ傍らで)ぬくぬくとして平和憲法を享受し」という文言は、とても「ショッキング」であった。平和憲法、9条といえば、「日本が世界に誇れる(唯一に近い)もの」であると小さい頃から教えられ、素晴らしい素晴らしいと言われて、自分自身でもそれを疑おうとはしなかったそのものが、日本の「周縁」に追いやられた人々にはそのように映っていたのか、という衝撃。

でも、だから、憲法を「改正」して、『「普通の国」になって』、その後ろめたさを解消しようじゃないか、というのは、違う。
ジョン・ダワーが言うように「普通の国」になったところでしょうがないし、チョムスキーが言うように「普通の国」なんて、「そんなもの」でしかない。

そして、懸案なのかどうか知らないが時々耳にする「東アジア共同体」的なものに関しても、おそらく現状で日本が主導しようというそぶりを見せたら、たとえそれが経済に限定したものであっても、中国韓国あたりは「『日帝』の再来」ととらえるだろうし、日本が憲法9条を「改正」でもしたら、それが「アメリカ様の御意向に沿えるように」というためだけのものであったとしても、「また(我々に対して)戦争をしかける気だ」ととらえられるだろう。

それだけのことを日本はかつてしているということで、そのあたり、チャルマーズ・ジョンソンさんの「アジア諸国への謝罪としての憲法9条」という考え方はとても共感できるものだと思った。

それから、ソウルフラワーユニオンの音楽は、とてもピースフルであるということを実感した。

見終わってから、映画日本国憲法読本を買って帰宅。

映画日本国憲法読本

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