真夜中の弥次さん喜多さん

すっごい映画。してやられた。

原作・しりあがり寿という時点で、ただ単に面白づくの、ハッピーなだけの映画ではないだろうとは思っていたけど、いやぁもう。「現実/夢」とか「生/死」とかいう、普段私が明白だと思い込んでいる区分がえらく曖昧で、三途の川のシーンに限らず彼岸と此岸が渾然一体としてて、自分が今見ているのがこっち側のシーンなのかあっち側のシーンなのかがだんだん曖昧になってきて、ぐぁーんとなってしまう。まぁよくわかんないと言ってしまえばそれまでなのだけれども。

冒頭で「おいら、リヤルがとんとわからねえ」と虚ろな目で言っていた喜多さんに、「おいらにとっちゃ、弥次さんがリヤルなんだ」って言われたところで、映画的にはそれでめでたしでも、こっちのこのぐちゃぐちゃなまでに広がった思考はどうにも収まらないんだってば。と愚痴りたくもなるくらいぐいぐいと引きずられる映画だった。


とりあえず、リアルさ・リアリティなんてかけらも無いかもしれないけど、それでも「リヤル」なんてものは「ここ」に無ければ何処にも無い、というお話だった。
そもそも、お伊勢さんからのダイレクトメールにあった「リヤルは当地にあり」という嘘臭いキャッチコピーや神々しい『伊勢』の文字や絵に比べれば、長屋で身を寄せ合う「おいら」と「おめえ」の浴衣を着たどうしようもない2人の方が余程「リヤル」だったのだし。


日本史的には、自由に行き来できなかった江戸時代の民衆にとって、お伊勢参りというのは手っ取り早く「非日常」を体験する手段だったわけだし、また非日常の究極は「死」である。
ということで言えば、映画にずーっと付いて回る「死」のイメージと現実も、自然なものなのかもしれない。

あとは、「リヤル探し」「てめえ探し」なんていう薄ら寒い言葉とは裏腹に、弥次さんと喜多さんがそれほどがっついてないのが良い。さすがは江戸っ子。何事も「粋」で。

一個だけ細かくケチをつけるなら、喜多さんが発した、「ホモ」が「治る」という台詞はいかがなものか。喜多さん自らが持つ「ホモセクシュアルであること」へのコンプレックスの表現、というような文脈ではあったが、妙に引っ掛かってしまった。


あとはもう、よく笑った。話の大筋・全体はそこそこシビアなんだけど、覚えているのはくだらないシーンばっかだったりする。

  • 茶の味』に続いて、岡っ引・寺島進の無駄っぷりが素敵。伊勢まであと3キロのあたりで「何キロ出てたと思ってんの」とスクーターでスピード違反を取り締まり、さらに「江戸時代の人間なら歩けよ」と厳しく時代考証。もちろん電車も認めない。無駄っぷりでは象様について瓦版で解説していた生瀬勝久も負けてないけど笑。
  • 昨日のタイガー&ドラゴンで「いかにも」な薄っぺらプロデューサだった大森南朋氏が、今日は面白くなくて石抱きさせられる侍。木村笑之新@竹内力が「山田くん」に「3枚」と言うと、それだけ膝の上の石板が増えていく、というアイデアがもう。
  • おぎやはぎ、もとい、さむらいけらいの「また相部屋かよ」「いやでも良くなってるよ俺達」っていうのがとてもツボ。
  • たわあ麗溝堂ってNO MUSIC,NO LIFEのポスター用のセットじゃなくて映画のセットだったのか。確かにコストかけすぎだろうと思ったけども。しかもソノシートって。
  • 荒川良々だらけの絵は、もう反則。不健康ランドの店員も客も良々。サウナも全員良々。カラオケの映像の中まで良々。でも追い掛けてくる荒川良々の大群は真剣に怖い。

他にも、しつこい妊婦ネタでお手打ちになるけど何故か平気な皆川猿時とか、追いはぎされちゃって喜び組に見向きもされない清水次郎長@古田新太とか、西岡徳馬にしか見えない金々@阿部サダヲとかヒゲのおいらんが妙にはまってる松尾スズキとか、新聞紙で兜作っちゃうアーサー王@中村勘九郎(当時)とか、本人役でとろろ汁の取材しちゃう毒蝮三太夫とか、笑い所だらけ。とても全部は拾い切れない。
あと、研ナオコの存在感はさすがだった。

ZAZEN BOYSの出演シーンはアヒト・イナザワも居て、今となっては若干切ないけど、音楽は非常に映像に馴染んでいた。