見仏記/いとうせいこう・みうらじゅん

見仏記 (角川文庫)

見仏記 (角川文庫)

何度か読み返しているのだけれど、2人の絶妙な距離感が心地良い。あと、みうらじゅんの奇天烈なのに的を射ているような観点が面白い。以下、50頁から引用。

「いっつも思うんだけどさあ」
 横からみうらさんが言う。
空也上人って小さいんだよね。小さいぞって思って見に来るんだけど、いっつもそれより小さいの。変なんだよねえ」
「そういうことってあるね。いっつも想像を超えちゃうっていうか、記憶が感覚に裏切られるっていうか」
 私はその“記憶が感覚に裏切られることの快感”について話したかったのだが、みうらさんはそんな観念遊戯をしない。
「ね、ちっさいでしょう、空也上人は?」
 彼はあくまでも目の前にあるものについてしかしゃべらないのだ。私は自分の悪い癖を反省して、きちんと現在見ているものを見た。
確かに驚くほど小さい。みうらさんは続ける。
「昔の人だからかなあ」
「そういうことなんだろうねえ」
 そう応えながら、私はみうらさんの正直さに嫉妬していた。彼はいつでも現在に生きていて、瞬間瞬間に集中することが出来る。観念に逃げ込むことなく、事実を感じることが出来る。やっぱり絵を描くべき人だ。そして、私は結局文章しか書けない人間である。

ちょっと傲慢な言い方をすれば、この、いとうせいこうの嫉妬が、なんとなく、ぼんやりと、わかる気がする。
理系/文系の区別と同じで、絵かき/文章かきというのも、そういう区別をしたがるのは常に「文章かき」側の人間なんだろうなぁと思う。

あと、「記憶が感覚に裏切られる」ということについて言えば、永観堂の見返り阿弥陀像を去年の秋見に行ったときに、随分前に見た記憶より随分と小さかった。とはいえ、前に見たのが小学生の時だったはずだから、こっちのサイズが変わってしまっただけなんだろう、多分。

記憶が感覚に裏切られる、というよりはむしろ、感覚のとおりに記憶されない、ということなんだろうなぁ。