エドワード・サイード OUT OF PLACE @京都造形芸術大学

昨日、ゼミを休み、春秋座であったシンポジウムと上映会に行った。

シンポジウムにはサイードの配偶者であるマリアム・サイードさんが出席されて、わりとゆっくりとした調子の、聞き取りやすい英語で、息子、娘、それと月齢8ヵ月半の孫“エドワード”の話、ガザ入植地撤退に反対してブルドーザによって圧死した活動家、レイチェル・コリーとそれを基にした劇の話、「共存」に希望をよせ、自らの思想が時代とともに流動し、変化していくことを望んでいたというサイードの話、彼がリスク・矛盾をとることを厭わなかったことなどを話してくださった。

その後は鵜飼哲さんと監督の佐藤真さんの対談のような感じですすんだ。佐藤さんは意外にざっくばらんで、面白いおっちゃん、という印象だった。「『論争的な作品』にすることもできたけど、そうはしたくなかった」という言葉があったが、映画を見て、「そうは(論争的には)したくない」という意図はわかるかもしれないと思った。その言葉から得た先入見を差し引くとしても。

映画の方は、「何かの理解なり解釈なり物語なりを強制しない」という意味で曖昧で、落ち着いた印象だった。
イードについて雄弁に語る「知識人」の人々より、監督が実際に訪れたパレスチナイスラエルの市井の人々の方が遥かに印象に残る。どこの家族も朗らかで、『優しく「強い」お母さんにちょっとお茶目なお父さん』という構造が見えて面白かった。
「(飲み物に入れる)砂糖はいくつ?」という問いが、パレスチナでもイスラエルでも同じように、お母さんによって繰り返されていたこと、それから厳しい現実を生きる子供たちの真っ当さ、素直さ、さらには冒頭と終わりに登場する、傍らにオリーブが植わったサイード墓所の、ひっそりとしたたたずまいが印象的だった。彼のお墓が、生地エルサレムでもシリアでもエジプトでもアメリカでもなく、妻マリアムさんの生地、レバノン・ブルンマーナのクエーカー寺院に立てられたということと、シンポジウムで鵜飼哲さんがおっしゃっていた、「“exile”の経験をした人間は、どこからも自由なのではなく、沢山の場所に取り付かれる」という言葉が示唆的だと思う。

「境界の上で生きること、多面性を引き受けること」も、重要なような気がしつつ、まだまだわからない。