Θは遊んでくれたよ/森博嗣

事件の構造はいたってシンプル。犯人とかトリックの出来が個人的な作品の毀誉にあまり影響しないのはミステリと括られる中では森博嗣ぐらいかも。つまり、もう「ミステリ」として読んでない、ということ。久々の犀川先生の、相変わらず独特な見解が面白かった。メモがわりに抜粋。

「考えてもしかたがないものか、それとも考えるべきものか、が最も重要な疑問だね」

「いずれにしても、本質ではない。宗教という形態自体が、メディアだからね」
「神様が必要となる理由は、基本的には責任転嫁のメカニズムなんだ。誰か他の者のせいにする。そうすることで、自分の立ち位置を保持する、というだけのこと」

「神様がいてもいなくても自殺はある。人間として、本質的に選択可能な行為だからね。ただ、神様という記号によって、解釈をしようと試みる、言い訳を作ろうと試みる、あるいは逆に、その解釈と言い訳によって、自殺を思いとどまらせる、という使用法もある。それだけ」

この種の宗教観は個人的にはあまり接したことがない。まぁ確かに媒介だし記号だ。

あと、犀川の発言ではなかったと思うけど、「宗教は人間を死の恐怖から救うものだから、人の命を軽く扱いがちなのは当然」みたいな主旨の言葉も。

宗教学なんかやってると、宗教を過大評価しがちというか、「神様」を必要とする人間の「弱さ」という根本的なことはあまり問われないように思うけど、責任転嫁っていうのはそうだろうな。それがいいとか悪いとかいうことではなくて。
苦難の神義論とかもそういう感じだな、と思う。こんなに「正しい」のに、どうして神はお救い下さらないのか、という。正しければ救われる、という前提はその宗教が与えているものなのに。ヨーロッパにおいてのキリスト教が相手では仕方ないような気もするけど。

話を戻すと、相変わらずつきまとう真賀田四季の影が不気味。しかも保呂草って…。またとんでもないことを考えておられるのかしらん。