ポストコロニアリズム/本橋哲也
- 作者: 本橋哲也
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2005/01/20
- メディア: 新書
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- 植民に出掛けたヨーロッパ人が、現地人が解すはずもない自分たちの言葉で行った「領有宣言(レケリミエント)」において、植民者と現地人の間にはコミュニケーションなど端からない。というか植民者・支配者の側にはコミュニケーションしようという意思がそもそも皆無である。しかし、事象・手続きとしては正当化しうるだけの手順を踏み、文書上ではコミュニケーションが存在していたかのように見える。
こういう構造は、他にも沢山あるなぁと思った。力の差がある二者間において、上位者にはコミュニケーションする意思がそもそもないのに、表面的にはあたかもコミュニケーションが存在したかのように見せてしまう、というやつ。
- 「白人/ニグロ・黒人」という二元論はあくまで白人が植民地に持ち込み、一方的に押し付けたものであって、善くは知らないが、ネグリチュードのように、黒人たちが自ら「ニグロ」「黒人」としてのアイデンティティを模索・獲得する必要なんて本当はないはず。だけど同時に、白人の造った枠組みの中で、その枠組みの解体を目指してなんらかの解放闘争をする際、闘う相手を明確化するためには、自ら「黒人」であるという属性を選び取り、「ニグロ」として闘う、というのが手っ取り早いのだろうか。
あ、わかんなくなってきたぞ。
なんか、ヨーロッパのムスリムも似たような感じがあるように思ったのだった。トルコ移民のレポートを書いた時に読んだイスラム復興の話を思い出して。
- この本の77頁に引用されている、フランツ・ファノンの『黒い皮膚・白い仮面』143頁、
黒人であるこの私の欲することはただひとつ。
道具に人間を支配させてはならぬこと。人間による人間の、つまり他者による私の奴隷化が永久に止むこと。彼がどこにいようが、人間を発見し人間を求めることがこの私に許されるべきこと。
ニグロは存在しない。白人も同様に存在しない。
……
優越性? 劣等性?
どうしてもっと単純に、他者に触れ、他者を感じ、みずからに他者を啓示しようと試みないのだろうか?
私の自由は〈なんじ〉(Toi)の世界をうち建てるために私に与えられたのではなかったのだろうか?
というある意味でものすごく個人主義的な考えは至極もっとも。個人的な経験から言っても、「個人対個人」であるうちは、国籍・人種といった属性はさほど障害ではない。しかし、それが国家間とか民族間になるとそれだけではすまない。
現実に、ファノンが述べた“「自己−他者」という関係だけが支配的な世界”は、今はまだ「理想」の範疇にすぎない。
なんか、他にもぐちゃぐちゃとあれこれ考えたのだったけれど、うまく言葉にできないや。