街場の現代思想/内田樹

街場の現代思想

街場の現代思想

このひとの書くものはとても「腑に落ち」る。すとん、と入ってきて納得できる。面白かった。
以下、引用。

歴史が証明しているのは、あらゆる組織は―世界帝国から資本主義企業まで―多様性を維持しているときに栄え、「栄えている」という事実ゆえに均質的な個体を結集させ、結果的に組織としての多様性を失って滅びる、ということである。(108頁)


「決断」というのは私たちの前にまっさらな未来が開けているということではない。むしろ、私たちの過去のふるまいが清算されることなのである。
 (中略)
 決定的局面で「正しい判断」をする人とは、これまでつねに「正しい判断」をしてきた人ではない。そうではなくて、「正しい判断」をしないと生き延びられないようなリスクを最小化することに、これまでつねに心砕いてきた人のことを言うのである。(128頁)


人類が再生産を維持するために必要な資質は「快楽を享受する能力」ではない。そうではなくて、「不快に耐え、不快を快楽に読み替えてしまう自己詐術の能力」なのである。(148頁)


結婚は快楽を保障しない。むしろ、結婚が約束するのはエンドレスの「不快」である。だが、それをクリアーした人間に「快楽」をではなく、ある「達成」を約束している。それは再生産ではない。「不快な隣人」、すなわち「他者」と共生する能力である。おそらくはそれこそが根源的な意味において人間を人間たらしめている条件なのである。(149頁)


結婚とは「この人が何を考えているのか、私には分からないし、この人も私が何を考えているのか、分かっていない。でも、私はこの人にことばを贈り、この人のことばを聴き、この人の身体に触れ、この人に触れられることができる」という逆説的事況を生き抜くことである。(158頁)


「前代未聞の状況」に際会したときに、いちばん役に立たないのは、それを「既知に還元する」かたちでしか理解できない頭脳である。(186頁)


しかし、私たちが、ほんとうに想像力を使うことが必要なのは、「共感できる人間」についてではなく、「共感できない人間」についてではないかと私は思っている。(211頁)


想像力というのは、「現実には見たことも聞いたこともないもの」を思い描く力である。そのためには、自分がいま見ているものは「見せられているもの」ではないのか、自分が想像できるものは「想像可能なものとして制度的に与えられているもの」ではないのかという疑念を抱き、そのフレームの「外部」に向けて必死にあがき出ようとする志向がなくてはすまされない。想像力を発揮するというのは、「奔放な空想を享受すること」ではなく、「自分が『奔放な空想』だと思っているものの貧しさと限界を気づかうこと」である。(213頁)


倫理的でない人間というのは、「全員が自分みたいな人間ばかりになった社会」の風景を想像できない人間のことである。(223頁)


逆説的に聞こえるかもしれないけれど、私たちが共同的に生きることができる人間というのは、私のことをすみずみまで理解し共感してくれる人間ではなく、私のことを理解もできないし、私の言動に共感もできないけれど、それでも「私はあなたの味方だよ」と言ってくれる人間のことなのである。(224頁)


およそ私たちが「価値あり」とするすべてのものは、それを失いつつあるときに、まさにそれが「失われつつある」がゆえに無上の愉悦をもたらすように構造化されている。だから、私たちが欲望するものは、それを安定的持続的に確保することが不可能なものに限られる。(230頁)


私たちが「価値あり」と思っているものの「価値」は、それら個々の事物に内在するのではなく、それが失われたとき私たちが経験するであろう未来の喪失感によって担保されているのである。(232頁)

これそのまんま箴言集にできるなぁ。