日本人は思想したか

  • ええと、現代の否定が過去の称賛につながりやすい、というのは多分万国共通。エリックホッファーも言っていた。で、その上で、特に「思い出に浸りやすい日本人」という構図は成立するのか。ちょっと教育上の問題が、とかなると、そんな問題昔はなかった→昔はよかった、となって、「教育勅語」とかいう単語を持ち出しちゃうのはそれ故なのか。過去の問題点を点検・整理せずにタコツボにほいほい放り込むから、過去における問題点が忘れ去られちゃうのか。
  • そりゃ確かに「山海草木悉皆成仏」「一切衆生悉有仏性」なんて言葉で表される思想を長年持ってきた国が、絶対的な神への信仰に長い間親しんできた国々と同じ発想を持つ可能性は低い。
  • 『思想的な「伝統」』でも『「伝統」的な思想』でもいいけれども、そのようなものが日本においては、西洋でされたような形では形成されなかった。それは事実だろう。けれども、現状肯定とかではなく、それって、そんなに必要か?

以下「日本人は思想したか」/吉本隆明中沢新一梅原猛ISBN:4101289212)から引用。

    
日本人が何か創造的な思想を試みようとすると、実感や情念が捉えているものと、仏教や儒教道教のような、超越的ないし普遍的な表現のちょうど中間のようなところで表現を試みていたように思います。(中沢新一
早急に事象に結論を加えてはいけないんじゃないかということが、僕の唯一の救いだといえば救いなんです。(吉本隆明
哲学とは何かという問いに、ジル・ドゥルーズは、異質な領域の異質な力を調停することだという明快な定義を与えています。調停が哲学の本質のひとつであるとしたら、歌論や和歌そのものは、日本人の哲学の最初の形態と見なしてもいいんじゃないかという気がしてきます。(中沢新一
日本人の五感や実感がとらえている世界と、国家に結びついた超越とか理念との間のずれがあって、その間で個別的で具体的なテーマを通して思想は表現されてきた。(中沢新一
形而上学というものを、コスモス的自然からあふれでるものの力を、新しい形式の反自然的なものの中にうつしかえて把握する行為だとしますと、日本人にも形而上学としての思想は存在するけれども、日本人の場合、形而上学的な思索の出発点に、技術とか造形という物が非常に大きな働きをしていたんじゃないだろうか。(中沢新一