今日読んだ本

悪人正機 (新潮文庫)

悪人正機 (新潮文庫)

吉本隆明って、正直ちゃんと読んだことなくて、よしもとばななのおとっつあんっていうイメージだった。でも、いろんな本の中でいろんな人が彼の言葉をひっぱってて、ちょっと読んでみようかなと。で、とりあえずとっつきやすそうなこれを。なんか、あ、この人、すごいんだな、っていうのわかる気がした。こう、毎日、テレビ見たりしてて、それ違うんじゃないのかなとか、ぼんやりと感じてることを、きっちり言葉で言ってくれてるというか。以下、ちょっと印象に残った部分を。

僕ら日本人って言うのは、過剰に気を遣いすぎる。だから、こう言っちゃ悪いんだ、みたいになっちゃうんですね。人それぞれ違う考えがあるっていう、相容れないもの同士のルールってのが、できてないんじゃないかな。
(中略)
結局、誰かが「殺してやりたい」と思っても、そう言っても、それはかまわねえんだし、異常でもなんでもないし、法的にも問題ないんだっていうことです。ま、本当にやったら別ですけど(笑)。(p.60、p.61)

自分だけがストイックな方向に突き進んでいくぶんにはかまわないんですけど、突き詰めていけばいくほど、他人がそうじゃないことが気にくわねえってのが拡大していきましてね。そのうち、こりゃかなわねえってことになるわけですよ。
(中略)
「清貧の思想」とか、そういうものはダメなんです。人間は、そういうふうには生きられない生き物なんですから。(p.98)

要するに伝統的なもの、地域的なもの、特殊性とかっていうのを、今の近代国家の範囲内で見える段階より、もっともっと掘り返しちゃってというか、さらに深めていくっていう方向にも行くんじゃないかと思います。つまりそれは、超近代っていう、近代国家を超えるって言う場合に過去も超えないといけない、みたいな感じですね。
(中略)
伝統がなくなって、それで普遍的になるっていうことじゃなくて、伝統的なもの、固有なものっていうのは、今、見えてるよりもっとよく見えるようになるっていうか、過去がよく見えるようになるっていうことと、これから近代国家という形態が壊れていくっていうこととは、パラレルに同じことになっていくだろうなと思ってますけどね。未来がだんだんはっきりしてくるっていうことと、過去がはっきりしてくることは同等じゃないかなと思うんです。(p.112、p.113)

人は、「自分は、このようにちゃんとしたことを考えているんだ」と強く思えば思うほど、周りの他人が自分と同じように考えていなかったり、全然別のことを考えていたりすると、それが癪にさわってしょうがなくなる。
 でも、それはやっぱりダメなんですよ。真剣に考える自分の隣の人が、テレビのお笑いに夢中になっていたり、遊んでいたりするってことが許せなくなってくるっていうのは、間違っているんです。(p.136)

未開社会の人にいくら話を聞いても、宗教家から言葉でいくら解説を受けたとしても、そこに生きていたときの精神内容は依然としてわからない。それをわかるには、そこに生きていた人と同じことをやるよりしょうがねえ、みたいなね。
 ふつう、ぼくらが、書いた本を読んだり、翻訳された読みものをいろいろ読んだりして、「あいつの気持ちがわかるなぁ」って言うのは、やっぱり、外側からなんです。内側からではない。内側からって言うことで、わかるためには、その人とまったく同じことをするしかないっていうのは、中沢さん*1の方法だし、それはとても重要というか、おもしろい考えなんだと思うんですよ。(p.333、p.334)

「『清貧の思想』はダメだ。」っていうのはもう完璧に同感です。い〜いこと言う。「近代国家を超えるときは、過去も超えなきゃいけない」っていうくだりは、最近丸山真男の日本の思想を大学で読んでるからか知らないけど、なんだかアンテナにひっかかるところだった。外側からの理解と内側からの理解っていうのも、最近気になってる『“わかる”っていったいなんじゃらほい』っていうテーマと関わってて興味深く読んだ。ほかにも、「宗教には深さがあって面白い」とか、大して奇天烈なことを言ってるわけじゃないんだけど、膝を打つ感じのところがたくさん。なんにせよ、「違う」っていうことに寛容でありたいな。